アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

【神宿から始めるアイドル入門】1.神宿って宗教団体か何かだろうか。えっ、アイドル!?

 「神宿」という名前を聞いて、あなたはどう思っただろう。私は最初、宗教団体か何かだと思った。だって、「神」の「宿」である。あやしさ満点である。「神宿」がアイドルグループで、そのネーミングはメンバーたちがスカウトされた場所である「神宮前」と「原宿」から一文字ずつとったものだと知ったのは、後になってからだった。

 ところで、「アイドルは宗教だ」とする説は、別に新しいものではない。そもそも、idolは元来「偶像」を意味する言葉だった。つまり、言葉のはじまりからして、アイドルは宗教と強いかかわりを持っているのだ。アイドルと宗教との関係は、アイドルを論じた本を読むと必ずといってよいほど言及されている、古典的な――そして重要な――論点である。

 以下、様々な論者たちが、アイドルと宗教について、どのようなことを言ってきたのかを見てみよう。日本は多神教の文化だから、複数の「偶像」を抱えるグループアイドルが流行るのだという議論は、多くの論者によって取り上げられている(小林ら 2012, 中森 2017)。批評家の濱野智史は、AKB48前田敦子の「私のことは嫌いでも、AKBは嫌いにならないでください!」という発言を取り上げ、前田をゴルゴダの丘磔刑に処せられるキリストに喩え、AKBを「いま現に生きられる<宗教>」と捉えた(濱野 2012)。一方、美学者の安西信一ももクロをとりあげ、AKB48のような自己犠牲のトラウマ性は欠けているものの、やはりももクロには宗教的オーラのようなものが漂うと指摘し、オタクによるケチャと、巫女の神がかりを促す声であった「ハヤシ(囃子)」の類似に言及した(安西 2013)。

 アイドルと宗教をめぐる言説の中で、とりわけメジャーなのが、この「アイドル=巫女」説だ。安西だけでなく、アイドル評論家の中森明夫や、漫画家の小林よしのりも同様に、アイドルとは、神を宿らせる巫女なのだと語っている。中森は、AKB48柏木由紀について言及する中で、彼女は観客を「ゆきりんワールド」へと引き込む能力を持っており、「それは本当に巫女のような能力」(小林ら 2012, 中森の発言)なのだと述べる。小林は、同じくAKB48前田敦子の卓越性を説明する中で、「やっぱり、芸能人の基本は巫女だからね。そこに神が乗り移ったときに、カリスマ性が生まれる」(ibid., 小林の発言)と述べ、前田敦子のカリスマ性は巫女的なものであると論じている。

 しかし、こういった言説が、あくまで比喩の領域を出なかったのに対して、神宿をめぐる状況と宗教は、より直接的な類比関係を形成する。神宿の名が地名に由来するものにすぎないとしても、その奇妙なネーミングは、メンバーやファンの振る舞いに確かに影響を与えている。たとえば、メンバーは往々にして、ライブへの意気込みを語る際に、グループ名にかけて、「神を宿らせたいです!」と言う(アイドル自らによる、巫女宣言!)。神宿のライブツアーには、「神が宿る場所」というツアータイトルがつけられている。また、神宿のファンは「舁夫」(かきふ)と呼ばれる。原義は、神輿をかつぐ(舁く)人のことだ。さらに、神宿の自己紹介(「私たち、原宿発! 神宿でーす!」)の時のポーズは、あろうことか、二拍手一礼なのである。ライブ会場で神宿が自己紹介をすると、オタクもメンバーに合わせて二拍手一礼する。私は、ステージ上の人たちと客席の人たちが二拍手一礼しあっている光景を、やや茫然として眺めるのみである。

 今までは、宗教性とアイドル性の類似は、従来のアイドルについては、あくまで批評的文脈の中で指摘されてきたものにすぎなかった。しかし、神宿は、自ら「神を宿らせたい」と発言し、二拍手一礼しながら自己紹介することにより、その類似を内在化してしまう。自覚的な「巫女」であると述べることは、本人たちにとっては稚気めいた言葉遊びに過ぎないのかもしれない。しかしこの言葉遊びによって、5人はアイドルそのものへ――多くの批評家が論じてきた「アイドルの本質」へと、今までのどのアイドルよりも急速に漸近してゆくのである。

 

【参考文献】

安西信一(2013)『ももクロの美学――〈わけのわからなさ〉の秘密』廣済堂新書

小林よしのり中森明夫宇野常寛濱野智史(2012)『AKB48白熱論争』幻冬舎新書

中森明夫(2017)『アイドルになりたい!』ちくまプリマ―新書

濱野智史(2012)『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48ちくま新書