アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

【神宿から始めるアイドル入門】6.なぜ、神宿は自分たち自身について歌うのだろうか(1)

 神宿の1stアルバム『原宿発!神宿です。』の収録曲を眺めていると、あることに気がつく。「KMYD」、「全開!神宿ワールド」、「必殺!超神宿旋風」、「ぱらしゅ~と☆らぶ」。全10曲中、実に半数近い4曲で、曲中、もしくは歌詞中にグループ名「神宿」の文字が含まれている。この傾向はその後も続く。1stシングルは「原宿戦隊神宿レンジャー」とタイトル中に「神宿」が入り、2nd「カムチャッカ・アドベンチャー」も、歌詞中で「神が宿る」と歌われている。アイドルが自分たち自身について歌うこと(自己言及すること)は決してめずらしくはないが、神宿は自己言及の多さは、やはり目につく。なぜ、神宿はこんなにも自分たち自身について歌うのだろうか。神宿にとって、自分たち自身について歌うことは、どのような意味を持っているのだろうか。

 東大准教授によるアイドル論として話題になった『ももクロの美学』(安西信一)の中でも、アイドルの自己言及について論じた一節は、とりわけ難解だ。大バッハフーガの技法』から音楽における自己言及の歴史を説き起こし、松本伊代松田聖子小泉今日子おニャン子クラブモーニング娘。AKB48と、アイドルにおける自己言及の歴史をたどった安西は、それらのアイドルにおける自己言及は、自分への批評をパロディー化し、風刺しているのだと結論づける。しかし、と安西はいう。ももクロの歌詞に多く見られる自己言及は、従来とは異なり、こういった「批評性」とは無関係だ。なぜなら、昨今のアイドルにあって、「アイドル〈である〉ことと、アイドルを〈演ずる〉こととの差異は、ほとんど消失」している。このため、「ももクロにあっては、アイドルであることへの自己言及やその演技は、対自性を欠き、結局、即自的にアイドル〈である〉ことと同じになってしまう」のだ。

 ついにはヘーゲルの概念まで持ち出して、ももクロの自己言及について語る安西に、読者(私)は目を白黒させ、慌てて本など閉じてお風呂に入ってしまいたくなるのだが、ここはぐっと歯をくいしばって、私なりに解説してみよう。

 従来のアイドルに対しては、色々な「批評」があった。つまり、「小泉今日子はアイドルというものをやっているけれど、アイドルって何?」と思う人々に対して、評論家などと称する人々が、「小泉今日子はアイドルをやっている(〈演じて〉いる)けれど、アイドルというのは、こういう試みなんだよ」などと解説してくれていたわけだ。それに対抗して、アイドルたちは、「私はアイドルだから~」というような歌を歌うことで、大きなお世話であるところの批評を先取りし、パロディ化していた。これが、従来の自己言及だった。ところが、現代のアイドルでは、事情は異なる。アイドルの概念はすっかり浸透した。ファンも、アイドル本人も、「百田夏菜子はアイドル〈である〉」ことを、解説なしに、自然に受け入れられるようになった。従来の理解が、「小泉今日子はアイドルを〈演じて〉いる」というものだったのに対し、現代の理解は「百田夏菜子はアイドル〈である〉」というものに変わっていった。

 私がこの神宿論の第2章で、「神宿は最初からアイドルだった」と書いたことを思い起こしてほしい。そう、「一ノ瀬みかが、アイドルを〈演じて〉いる」わけではない。「一ノ瀬みかは、アイドル〈である〉」のだ。羽島めいもインタビューで「キャラっていうか、なんもつくってないんですけど。素のままのキャラが強くて」と、なにも〈演じて〉はいないことを語っている(https://www.youtube.com/watch?v=X3dCS_bssR4&t=4m9s)。もはや、「一ノ瀬みかはアイドルを〈演じて〉いるけれど、それって結局何をやっているの?」という問いは、ナンセンスなのだ。そして、アイドル自身が、「アイドルってこういうことなの」と歌う必要も、もはやないわけだ。

 昔のアイドルも、自分たち自身について歌った。それは、安西によれば、「アイドルを〈演じる〉」という試みについての解説を、先回りして自分でやってしまうことで、そういった批評をパロディ化してしまうためであった。しかし、「アイドルを〈演じる〉」ではなく、「アイドル〈である〉」ことが受け入れられるようになった現在では、そのようなことをする必要はなくなった。では、なぜ神宿をはじめとする今のアイドルも、自分たち自身について歌うのだろうか。(続く)

 

【参考文献】

安西信一(2013)『ももクロの美学――〈わけのわからなさ〉の秘密』廣済堂新書