アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

『原宿発!神宿です。』全曲レビュー track 9. はじまりの鐘を鳴らせ

 『ビ・ビ・ビ♡』の項でも書いたが、『ビ・ビ・ビ♡』とこの『はじまりの鐘を鳴らせ』は、神宿への楽曲提供のオファーを受ける前から、ながいたつのストックにあった曲だった。よって、この曲にも、AKB48への提供を想定した曲ではないかという疑惑が起こる。アップテンポで明るいアレンジ、オーケストラルヒット、パワーコードのリフなど、AKB楽曲を特徴づける要素は多い。

 しかし、そんなことはどうでもよいのだ。歌詞は神宿用に書き直され、その結果、この曲は神宿のデビューにふさわしい楽曲へと変身を遂げた。冒頭から、神宿の門出を祝福するかのように鐘の音が高らかに鳴り響く。「パッ、パララ~」と、口でラッパを再現させる試みもおもしろい。

 中でもこの曲の一番のポイントは、「夢 夢みて 恋 恋した」や「あし あしたの こと ことなど 」に見られる、「吃音」の構造だろう。作曲家の武満徹は、「吃音宣言」と題されたエッセイの中で、ベートーヴェンの第五(『運命』の通称で知られる)に、吃音の構造(ダ・ダ・ダ・ダーン)が見られることを指摘した。

 どもりはあともどりではない。前進だ。どもりは、医学的には一種の機能障害に属そうが、ぼくの形而上学では、それは革命の歌だ。どもりは行動によって充足する。その表現は、たえず全身的になされる。少しも観念に堕するところがない。(武満徹「吃音宣言――どもりのマニフェスト」『武満徹エッセイ選――言葉の海へ』収録)

武満は、文法的な正しい言葉や、論理的に流暢な楽曲のみが尊ばれる状況に警鐘を鳴らす。本来、音や言葉は、ため息や叫びであり、人間の行動そのものだった。しかし今では、「人間というものから遠ざかり、方式の形骸」(ibid.)となってしまっている。ベートーヴェンの楽曲に見られる吃音の構造は、音楽を形式の呪縛から解き放ち、生身の人間の身体行動(武満の表現では「生の挙動」)へと取り戻す試みなのだ。

 「はじまりの鐘を鳴らせ」に、吃音の構造が見られることは興味深い。アイドルの出現によって、ポップ・ミュージックは様相を変えた。CDは、生身のアイドルと「接触」するための道具となった。楽曲の論理的な構造を知ることよりも、ライブの「現場」に通い、そこで盛り上がるという経験が大切だとされた。形式の音楽より、生身の身体へ。武満が「吃音宣言」で提唱した、「生の挙動」へと音楽を取り戻すことを実現したのが、あたらしい<アイドル>というムーヴメントだったのだ。

 

 【参考文献】

武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)

武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)