アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

【神宿から始めるアイドル入門】7.なぜ、神宿は自分たち自身について歌うのだろうか(2)

 「アイドル〈である〉」ことが余計な批評なしに受け入れられるようになった現代でも、なぜアイドルは自己言及するのか。ここに至って、安西の説明はいっそう難解になる。「ももクロが自己の生成過程を開示し、自己のあり方をさらけ出し、それを笑うことは、むしろ逆に、嘘のない真実、絶対的な肯定性の地平を積極的・能動的に拓くもののように思われる」と安西はいう。そして、安西によれば、評論家の北田暁大の言葉を借りれば、ももクロにおける自己言及は「ベタとメタとネタとの共犯関係」なのだという。いよいよ読者(私)は白目をむき、慌てて本など閉じてお布団に入ってしまいたくなる。

 素直に書いてしまえば、ここの箇所で安西が何をいいたいのか、私にはよく理解できない。しかし、安西は、どうやら「昔のアイドルの自己言及と、今のアイドルの自己言及って、全然別物だよ!」といいたいように思われるし、私もその意見にはまったく賛成だ。

 昔のアイドルは、自分が「アイドルを〈演じて〉いる」ことを意識し、それを歌にしていたが、今のアイドルは、自分が「アイドル〈である〉」ことを歌う。そこには、アイドルを演じている自分を上から眺めるような「メタ」的な視点は存在しない。たとえば、「全開!神宿ワールド」で、「授業中からずっと/この瞬間待ちわびてた」と歌われるとき、そこで歌われているのは、学生からアイドルへと、シームレスに移行する神宿メンバーの様子である。アイドルであることは、特殊なことではなくなった。学生であるという日常と、アイドルであるということは、もはや地続きなのだ。

 今のアイドルも自分自身について歌うけれど、それは特殊な「メタ」視点によるものではない。神宿が「はじめましてで お目にかかります/神宮 原宿 合わせて 神宿です」(「KMYD」)と歌うとき、彼女たちは、別にアイドルであることへの批評を打ち消したいわけではない(そもそも、そのような批評は、既に絶滅危惧種なのだ)。ただ単に、私たちが「はじめまして。ほんにゃら産業の田中です」と名乗るのと同じ意味合いで、彼女たちは名乗る。現代のアイドルにおける自己言及は、過去のアイドルとは裏腹に、アイドルが私たちの日常の一部として受け入れられたことを裏づけるものなのだ。

 私たちは、会社の後、学校の後に、いそいそとライブハウスに足を運ぶ。彼女たちも同じように、学校の後に、いそいそとライブハウスに足を運ぶ。そこで彼女たちは、私たちに名乗るのである。「はじめまして、神宿です」

 

【参考文献】

安西信一(2013)『ももクロの美学――〈わけのわからなさ〉の秘密』廣済堂新書