アイドルそのものへ!

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【神宿から始めるアイドル入門】8.羽島みきに学ぶリーダー論

 アイドルグループのリーダーといえば、一般的にはしっかりもの、グループのまとめ役というイメージが強い。ライブでのMCやメディア出演時には、リーダーがグループを代表してトークをする。エースと兼任する「エーダー」と呼ばれるタイプのリーダーも多い。

 ところが、神宿のリーダーである羽島みきは、一般的なリーダーのイメージとは、180°異なる。お世辞にも「しっかりしている」とは言い難く、みきが告知を行う場合は、他のメンバーから心配されるのが常である。また、MCやメディア出演時にトークを回すのは、みきではなく、妹の羽島めいである。「めいの方が姉だと思った」とよく言われるとは、本人たちの弁。パフォーマンスはソツなくこなすものの(おっちょこちょいなミスはあるというが)、神宿のエースは小山ひな、センターは一ノ瀬みかであり、みきは「エーダー」タイプのリーダーでもない。

 いわば、みきは「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーであり、ともすると存在を軽んじられがちな節すらある。しかし、「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーこそが、世界に誇る日本の文化となった「アイドル」のリーダーとして、最もふさわしい姿だと私は思う。

 哲学者のロラン・バルトはかつて、短い日本滞在期間を利用して、日本論をものした。『表徴の帝国』と題されたその本の中に、こんな印象的な一節がある。

わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な学説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。(バルト 1996)

日本の首都・東京の、そのさらに中心は「空虚」がある。バルトのいう空虚とは――皇居のことだ。東京の中心、千代田区千代田1-1には、皇居という、だだっ広い空間が広がっている。そこに天皇という、「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダー(日本国民統合の象徴)がましましている。その周りに道路が巡り、車(や皇居ランナー)が忙しく走り回っている。バルトによれば、これこそが、日本の構造なのだ。とすれば、羽島みきという「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーの存在は、まさに日本文化としての「アイドル」にふさわしいリーダー像ではないだろうか。

 巷の「リーダー論」と題された本の多くは、強い決断力でグループを導いていくリーダー像を説く。そういった「リーダー論」に異を唱えるのが、京都大学学長の山極寿一だ。山極は、哲学者である鷲田清一との対談でこう述べている。

「あれ! 君がリーダーだったの?」と言われるぐらいでちょうどいいんです。戦いに勝つためにチームを引っ張り、その結果、目立つような存在はリーダーとは言えません。(鷲田・山極 2017)

バルトの「中心」論にも通ずるこのリーダー像について、山極は、人口が減り、社会が縮小している先進国の状況に対応するリーダー像だと説明する。

 山極のいう「先進国の状況」とは、私なりに説明するならば、〈大きな物語〉の消滅だ。かつて、経済が成長し続けていた時期の日本は、たとえば「売上〇%増!」などの目標を掲げ、チームを強力に引っ張っていくリーダーを必要していた。ところが、バブル崩壊以降の日本においては、「何かの目標に向けて、リーダーの強力な先導のもと、チームが一丸となって頑張る」という〈物語〉は成立しなくなった。こうした状況で、新しいリーダーが必要とされている。

 アイドルの世界でも、何かの目標(より大きな会場での公演など)に向かって成長するという〈物語〉を売りにする時代は終わった。この、〈大きな物語〉消滅後の時代を代表するアイドルこそ神宿なのだ、というのが私の主張だった(【神宿から始めるアイドル入門】2.〈大きな物語〉は終わり、神宿が現れた!参照)。もはや、目標に向かって強力にグループを引っ張るリーダーは必要とされていない。こうした新時代のアイドル・神宿のリーダーが、「あれ! 君がリーダーだったの?」と言われる羽島みきであるのは、ある意味で必然なのだ。

 前述のバルトは、こう締めくくっている。

このようにして、空虚な主体にそって、想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。(バルト 1996, ただし訳注は除いた)

羽島みきという、なんだかぼんやりとした中心がいて、その周りを、他のメンバーたちが元気に走り回る。そうして、神宿のつくりあげる「想像的な世界」は、迂回し、方向を変え、循環しながら、広がってゆくのだ。

 

 

【参考文献】

鷲田清一・山極寿一(2017)『都市と野生の思考』インターナショナル新書

ロラン・バルト宗左近訳)(1996)『表徴の帝国』ちくま学芸文庫