アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

滝口ひかりとサルトル――「もう一度人生をかけて0からスタート」するということ

 三嵜みさと滝口ひかりの両名が、11月11日の公演をもってdropを卒業することを発表した。

 滝口が自身のツイッターで述べた言葉は感動的だ。

もう一度人生をかけて0からスタートしなければならない

滝口ひかりなんてちっぽけな存在だと自分に言い聞かせなければならないと思いました

「いつだって、人生をやりなおすことはできる」と、人々は言う。しかし、今まで築いてきたものを捨てて、実行に移すことは、なかなかに難しい。まして、滝口のように、アイドルとしてそれなりの成功を収めており、<2000年に一度の美少女>などという異名をとり、知名度もある場合はなおさらだろう。

 「もう一度人生をかけて0からスタート」することは、なぜ難しいのか。こうした人生の選択を「根源的投企」というムズカシゲな言葉で呼んだサルトルは、その困難さを次のように説明している。

 もし、自分の人生を選択することができないのだとしたら(決定論)、人間は、自分の人生に責任を持つ必要はない。だって、自分が選んだ人生ではないのだから。過去の出来事や、周囲の環境によって、私がこうであることは決定づけられていて、私自身にはどうしようもできないのだ。

 ところが、「根源的投企」(要するに、自分の意志での選択)を行うとなると、様子は変わる。私には自由に人生を選択することができ、自分で選択を行ったわけだ。だとすると、私たちは自分の行動に「責任」を取らなければいけない。自分の選択がどんな結果をもたらそうと、その結果に責任を持たなければならないのだ。「自由には責任が伴う」とよくいわれるのは、本当はこういう意味だ。サルトルはこれを、「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。

 周りの「大人たち」の言う通りにアイドルを続けていくことは、滝口にとって簡単だっただろう。しかし、滝口は、自らの責任において新しい道を選択し、歩き出すこと(=「根源的投企」を行うこと)を選んだ。「もう一度人生をかけて0からスタート」することは、普通の人にはなかなかできない。滝口のような、実績と知名度とファンを持つ、「大きな存在」であるアイドルには、一層難しいことだと拝察する。

 滝口のステージを初めて見た日のことを思い出す。<2000年に一度の美少女>という触れ込みを聞き、彼女の画像を見て、初めてステージを観に行った私の目に映ったのは、ひとりの等身大の少女だった。激しいパフォーマンスや笑顔は印象的だったものの、<2000年に一度>という肩書きによって多分にハードルを上げられていた私は、特に強く惹かれることもなくステージを後にした。しかし、今になって見れば、滝口のファンは、彼女の容姿だけでなく、その強い意志や人間性にも魅力を感じていたのだとわかる。<2000年に一度の美少女>というルッキズム的なコピーに終始し、彼女の内面的な魅力を伝えることができなかったメディアにも、問題はあったかもしれない。
 滝口は、過去のインタビューにおいて何度か、「dropを辞めるときは芸能界を引退するとき」だという旨を述べている。彼女が、同世代とのアイドルとの会話の中で、引退後の具体的な進路について言及している番組(椎名ぴかりんのヤッてみるニュース ♯7)もある。しかし、彼女の今後について、あれこれと詮索するのはやめにしよう。ひとりの女性としての彼女の人生は、私たちの手の届かぬところで紡がれていく。アイドルについて書く者として、彼女の残りのアイドル生活が輝かしいものであることを願っている。そして一人の人間として、彼女の卒業後の人生が幸多きものであることを願って、擱筆する。

 

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