アイドルそのものへ!

つねに今ここにいるアイドルそのものへと立ち戻って語ること。

『原宿発!神宿です。』全曲レビュー track 2. KMYD

 『原宿発!神宿です。』を聴くものの耳に一番最初に聴こえてくる言葉は、「はじめましてで お目にかかります」という詞。そう、冒頭に配置されたこの楽曲は、リスナーに向けた、神宿による自己紹介だ。

 小山ひなの「最初から完成された」歌唱の後に、やや緊張した面持ちで羽島めいが続く。ブリッジでは関口なほが登場。その後、5人のユニゾンでのサビに突入していく。

 神宿は5人ともが一聴して聴き分けられる魅力的な声質を持っており、全員が「歌える」アイドルグループだが、この時点では、制作サイドは、ひなとめいをメインに据え、飛び道具的になほを用いるという戦略を立てていた(と思う)。たしかに、それほどに、この曲でのひなの「こなれた」歌唱と、めいの「初々しい」歌唱は対照的であり、まるでビートルズにおけるジョンとポールのように、互いを引き立たせている。一方で、この時点では一ノ瀬みかと羽島みきの最年少/最年長コンビは、雌伏している。

 ともかく、神宿の夜明けを飾るにふさわしい爽やかさと、一気にリスナーを神宿ワールドに引き込む力強さを兼ね備えた楽曲である。

『原宿発!神宿です。』全曲レビュー track 1. Overture

 アイドルについて語るときに、往々にして見過ごされがちなのが「楽曲」だ。「楽曲派」という言葉も昨今では市民権を得てきたものの、アイドルをめぐって書かれる言葉の多くは、未だに「接触」や「ライブ」や「ビジュアル」に費やされている。しかし、アイドルにとって最も大切な要素のひとつが「楽曲の良さ」であることは、疑いようもない。あるアイドルについて書こうとするときに、楽曲に言及しないようでは、不十分の誹りを免れまい。そこで、ここでは、神宿の1stアルバムの全曲をレビューしていく。

 さて、本曲は1分程度のインストに過ぎない。そして、ライブやイベントで出囃子として使うためのOvertureを有するアイドルグループも、今では特に珍しくない。ゆえに、この曲については、特に説明すべきこともないように思われる。しかし、1stアルバムの冒頭にOverture(=序曲)をきちんと配置したところに、本アルバムをトータル・アルバムとして位置づけようという、制作側の意図がうかがえる。本アルバムは、曲順にも意味があるということだ。

 なお、このアルバムではほぼ全曲で、ながいたつが作曲・作詞・編曲を手がけているが、このOvertureのみ、ながいの作品ではない。

【神宿から始めるアイドル入門】8.羽島みきに学ぶリーダー論

 アイドルグループのリーダーといえば、一般的にはしっかりもの、グループのまとめ役というイメージが強い。ライブでのMCやメディア出演時には、リーダーがグループを代表してトークをする。エースと兼任する「エーダー」と呼ばれるタイプのリーダーも多い。

 ところが、神宿のリーダーである羽島みきは、一般的なリーダーのイメージとは、180°異なる。お世辞にも「しっかりしている」とは言い難く、みきが告知を行う場合は、他のメンバーから心配されるのが常である。また、MCやメディア出演時にトークを回すのは、みきではなく、妹の羽島めいである。「めいの方が姉だと思った」とよく言われるとは、本人たちの弁。パフォーマンスはソツなくこなすものの(おっちょこちょいなミスはあるというが)、神宿のエースは小山ひな、センターは一ノ瀬みかであり、みきは「エーダー」タイプのリーダーでもない。

 いわば、みきは「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーであり、ともすると存在を軽んじられがちな節すらある。しかし、「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーこそが、世界に誇る日本の文化となった「アイドル」のリーダーとして、最もふさわしい姿だと私は思う。

 哲学者のロラン・バルトはかつて、短い日本滞在期間を利用して、日本論をものした。『表徴の帝国』と題されたその本の中に、こんな印象的な一節がある。

わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な学説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。(バルト 1996)

日本の首都・東京の、そのさらに中心は「空虚」がある。バルトのいう空虚とは――皇居のことだ。東京の中心、千代田区千代田1-1には、皇居という、だだっ広い空間が広がっている。そこに天皇という、「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダー(日本国民統合の象徴)がましましている。その周りに道路が巡り、車(や皇居ランナー)が忙しく走り回っている。バルトによれば、これこそが、日本の構造なのだ。とすれば、羽島みきという「なんとなくぼんやりと中心にいる」リーダーの存在は、まさに日本文化としての「アイドル」にふさわしいリーダー像ではないだろうか。

 巷の「リーダー論」と題された本の多くは、強い決断力でグループを導いていくリーダー像を説く。そういった「リーダー論」に異を唱えるのが、京都大学学長の山極寿一だ。山極は、哲学者である鷲田清一との対談でこう述べている。

「あれ! 君がリーダーだったの?」と言われるぐらいでちょうどいいんです。戦いに勝つためにチームを引っ張り、その結果、目立つような存在はリーダーとは言えません。(鷲田・山極 2017)

バルトの「中心」論にも通ずるこのリーダー像について、山極は、人口が減り、社会が縮小している先進国の状況に対応するリーダー像だと説明する。

 山極のいう「先進国の状況」とは、私なりに説明するならば、〈大きな物語〉の消滅だ。かつて、経済が成長し続けていた時期の日本は、たとえば「売上〇%増!」などの目標を掲げ、チームを強力に引っ張っていくリーダーを必要していた。ところが、バブル崩壊以降の日本においては、「何かの目標に向けて、リーダーの強力な先導のもと、チームが一丸となって頑張る」という〈物語〉は成立しなくなった。こうした状況で、新しいリーダーが必要とされている。

 アイドルの世界でも、何かの目標(より大きな会場での公演など)に向かって成長するという〈物語〉を売りにする時代は終わった。この、〈大きな物語〉消滅後の時代を代表するアイドルこそ神宿なのだ、というのが私の主張だった(【神宿から始めるアイドル入門】2.〈大きな物語〉は終わり、神宿が現れた!参照)。もはや、目標に向かって強力にグループを引っ張るリーダーは必要とされていない。こうした新時代のアイドル・神宿のリーダーが、「あれ! 君がリーダーだったの?」と言われる羽島みきであるのは、ある意味で必然なのだ。

 前述のバルトは、こう締めくくっている。

このようにして、空虚な主体にそって、想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。(バルト 1996, ただし訳注は除いた)

羽島みきという、なんだかぼんやりとした中心がいて、その周りを、他のメンバーたちが元気に走り回る。そうして、神宿のつくりあげる「想像的な世界」は、迂回し、方向を変え、循環しながら、広がってゆくのだ。

 

 

【参考文献】

鷲田清一・山極寿一(2017)『都市と野生の思考』インターナショナル新書

ロラン・バルト宗左近訳)(1996)『表徴の帝国』ちくま学芸文庫

【神宿から始めるアイドル入門】7.なぜ、神宿は自分たち自身について歌うのだろうか(2)

 「アイドル〈である〉」ことが余計な批評なしに受け入れられるようになった現代でも、なぜアイドルは自己言及するのか。ここに至って、安西の説明はいっそう難解になる。「ももクロが自己の生成過程を開示し、自己のあり方をさらけ出し、それを笑うことは、むしろ逆に、嘘のない真実、絶対的な肯定性の地平を積極的・能動的に拓くもののように思われる」と安西はいう。そして、安西によれば、評論家の北田暁大の言葉を借りれば、ももクロにおける自己言及は「ベタとメタとネタとの共犯関係」なのだという。いよいよ読者(私)は白目をむき、慌てて本など閉じてお布団に入ってしまいたくなる。

 素直に書いてしまえば、ここの箇所で安西が何をいいたいのか、私にはよく理解できない。しかし、安西は、どうやら「昔のアイドルの自己言及と、今のアイドルの自己言及って、全然別物だよ!」といいたいように思われるし、私もその意見にはまったく賛成だ。

 昔のアイドルは、自分が「アイドルを〈演じて〉いる」ことを意識し、それを歌にしていたが、今のアイドルは、自分が「アイドル〈である〉」ことを歌う。そこには、アイドルを演じている自分を上から眺めるような「メタ」的な視点は存在しない。たとえば、「全開!神宿ワールド」で、「授業中からずっと/この瞬間待ちわびてた」と歌われるとき、そこで歌われているのは、学生からアイドルへと、シームレスに移行する神宿メンバーの様子である。アイドルであることは、特殊なことではなくなった。学生であるという日常と、アイドルであるということは、もはや地続きなのだ。

 今のアイドルも自分自身について歌うけれど、それは特殊な「メタ」視点によるものではない。神宿が「はじめましてで お目にかかります/神宮 原宿 合わせて 神宿です」(「KMYD」)と歌うとき、彼女たちは、別にアイドルであることへの批評を打ち消したいわけではない(そもそも、そのような批評は、既に絶滅危惧種なのだ)。ただ単に、私たちが「はじめまして。ほんにゃら産業の田中です」と名乗るのと同じ意味合いで、彼女たちは名乗る。現代のアイドルにおける自己言及は、過去のアイドルとは裏腹に、アイドルが私たちの日常の一部として受け入れられたことを裏づけるものなのだ。

 私たちは、会社の後、学校の後に、いそいそとライブハウスに足を運ぶ。彼女たちも同じように、学校の後に、いそいそとライブハウスに足を運ぶ。そこで彼女たちは、私たちに名乗るのである。「はじめまして、神宿です」

 

【参考文献】

安西信一(2013)『ももクロの美学――〈わけのわからなさ〉の秘密』廣済堂新書

【神宿から始めるアイドル入門】6.なぜ、神宿は自分たち自身について歌うのだろうか(1)

 神宿の1stアルバム『原宿発!神宿です。』の収録曲を眺めていると、あることに気がつく。「KMYD」、「全開!神宿ワールド」、「必殺!超神宿旋風」、「ぱらしゅ~と☆らぶ」。全10曲中、実に半数近い4曲で、曲中、もしくは歌詞中にグループ名「神宿」の文字が含まれている。この傾向はその後も続く。1stシングルは「原宿戦隊神宿レンジャー」とタイトル中に「神宿」が入り、2nd「カムチャッカ・アドベンチャー」も、歌詞中で「神が宿る」と歌われている。アイドルが自分たち自身について歌うこと(自己言及すること)は決してめずらしくはないが、神宿は自己言及の多さは、やはり目につく。なぜ、神宿はこんなにも自分たち自身について歌うのだろうか。神宿にとって、自分たち自身について歌うことは、どのような意味を持っているのだろうか。

 東大准教授によるアイドル論として話題になった『ももクロの美学』(安西信一)の中でも、アイドルの自己言及について論じた一節は、とりわけ難解だ。大バッハフーガの技法』から音楽における自己言及の歴史を説き起こし、松本伊代松田聖子小泉今日子おニャン子クラブモーニング娘。AKB48と、アイドルにおける自己言及の歴史をたどった安西は、それらのアイドルにおける自己言及は、自分への批評をパロディー化し、風刺しているのだと結論づける。しかし、と安西はいう。ももクロの歌詞に多く見られる自己言及は、従来とは異なり、こういった「批評性」とは無関係だ。なぜなら、昨今のアイドルにあって、「アイドル〈である〉ことと、アイドルを〈演ずる〉こととの差異は、ほとんど消失」している。このため、「ももクロにあっては、アイドルであることへの自己言及やその演技は、対自性を欠き、結局、即自的にアイドル〈である〉ことと同じになってしまう」のだ。

 ついにはヘーゲルの概念まで持ち出して、ももクロの自己言及について語る安西に、読者(私)は目を白黒させ、慌てて本など閉じてお風呂に入ってしまいたくなるのだが、ここはぐっと歯をくいしばって、私なりに解説してみよう。

 従来のアイドルに対しては、色々な「批評」があった。つまり、「小泉今日子はアイドルというものをやっているけれど、アイドルって何?」と思う人々に対して、評論家などと称する人々が、「小泉今日子はアイドルをやっている(〈演じて〉いる)けれど、アイドルというのは、こういう試みなんだよ」などと解説してくれていたわけだ。それに対抗して、アイドルたちは、「私はアイドルだから~」というような歌を歌うことで、大きなお世話であるところの批評を先取りし、パロディ化していた。これが、従来の自己言及だった。ところが、現代のアイドルでは、事情は異なる。アイドルの概念はすっかり浸透した。ファンも、アイドル本人も、「百田夏菜子はアイドル〈である〉」ことを、解説なしに、自然に受け入れられるようになった。従来の理解が、「小泉今日子はアイドルを〈演じて〉いる」というものだったのに対し、現代の理解は「百田夏菜子はアイドル〈である〉」というものに変わっていった。

 私がこの神宿論の第2章で、「神宿は最初からアイドルだった」と書いたことを思い起こしてほしい。そう、「一ノ瀬みかが、アイドルを〈演じて〉いる」わけではない。「一ノ瀬みかは、アイドル〈である〉」のだ。羽島めいもインタビューで「キャラっていうか、なんもつくってないんですけど。素のままのキャラが強くて」と、なにも〈演じて〉はいないことを語っている(https://www.youtube.com/watch?v=X3dCS_bssR4&t=4m9s)。もはや、「一ノ瀬みかはアイドルを〈演じて〉いるけれど、それって結局何をやっているの?」という問いは、ナンセンスなのだ。そして、アイドル自身が、「アイドルってこういうことなの」と歌う必要も、もはやないわけだ。

 昔のアイドルも、自分たち自身について歌った。それは、安西によれば、「アイドルを〈演じる〉」という試みについての解説を、先回りして自分でやってしまうことで、そういった批評をパロディ化してしまうためであった。しかし、「アイドルを〈演じる〉」ではなく、「アイドル〈である〉」ことが受け入れられるようになった現在では、そのようなことをする必要はなくなった。では、なぜ神宿をはじめとする今のアイドルも、自分たち自身について歌うのだろうか。(続く)

 

【参考文献】

安西信一(2013)『ももクロの美学――〈わけのわからなさ〉の秘密』廣済堂新書

【神宿から始めるアイドル入門】5.「裏の喪失」に抗う神宿運営(3)

 アイドルたちの「舞台裏」を公開し、「裏方」であるプロデューサー自らが「表」に出て、露出を重ねるという戦略が、最近のアイドル運営の主流だった。この戦略は、「ガチ」感を生み出し、また、発信者側に立っているかのように錯覚させることで、ファンの熱狂を生んだ。しかし、アイドルに対して疑似恋愛的な感情を抱いているファンは、「表」に出てくるプロデューサーに対して、強い嫌悪感を抱く。ふり返ってみると、「舞台裏」を公開する戦略で大成功を収めたAKB48も、全てを公開するように見せかけて、男性スタッフの存在をなるべく映像から消すなど、「裏」を確保する工夫を重ねていたのだった。やはりアイドルの世界には、見えてはならない「裏」が必要なのだ、というのが前回までの結論であった。

 さて、ここでいよいよ、神宿の運営について見てみることにしよう。神宿のプロデューサーである北川は、徹底的に露出の少ないプロデューサーである。北川の存在は、メンバーの発言や、神宿に曲を提供した作曲家のインタビューの中で断片的に言及されるのみで、自分からの露出は、ストイックなほどに行っていない。

 ためしに、googleで「神宿 プロデューサー」で検索してみよう。まず、「原宿戦隊!神宿レンジャー /限界突破フィロソフィ」の作曲家であるSHUNが、神宿公式サイト内のインタビューで「神宿プロデューサーの北川くんが(…)」と、北川について言及している(http://kmyd.targma.jp/posts/4894/)。このインタビューの中で、SHUNが「北川くんは表には出たがらない性格だし、神宿にはもちろん魅力的なメンバーが揃っているけれど、メンバーだけじゃなくて、裏にはこういうスタッフがいるからこそ、おもしろいんだと思う」と、「表」「裏」の表現を使いつつ、北川が露出したがらない旨を語っているのは、本稿の論旨からすると大変興味深い。SHUNが公式サイト内の鼎談の中でも北川に言及しており、そのページも検索上位にヒットする(http://kmyd.targma.jp/posts/6947/)。また、羽島めいが高校卒業に際して、「私が学校生活で沢山お世話になってきた先生や家族、友達、高校になって神宿で出会ったメンバー、プロデューサー、舁夫さんの想いを背負って。」(https://lineblog.me/kamiyado/archives/1062415275.html)と、プロデューサーに言及しているブログも見つかる。他に1ページ目にヒットするのは、2chまとめサイトでのファンたちによる論評くらいである。つまり、インターネット上で公式にプロデューサーへの言及をしたのは、ほとんど楽曲提供を行ったSHUNのみということになる。SHUNが「たまにはこうやって、スタッフさんの話をするのもいいよね。」(前掲インタビュー)と述べるのも、うなずける。それほどに、神宿の「裏」にいるスタッフの話をする人はいないのだ。北川は「舞台裏」に姿を隠したまま、頑なにファンの前に姿を見せようとはしないのである。

 SHUNは北川の露出の少なさを、「表には出たがらない性格」のせいだとしているが、私はこの露出の少なさは、戦略的なものであると思う。神宿は、『TOKYO IDOL FESTIVAL 2014』にスタッフとして参加した大学生が、アイドルグループをプロデュースしようと思い立ったことによって始まった。つまり、神宿の運営陣は、大変若い。当然、積極的な露出を行えば、まねきケチャの古谷やBiS渡辺の例で見てきたように、「ガチ恋」ファンを中心として反感を買うことは想像に難くない。TIFのスタッフまでやってしまうようなアイドル好きの運営が、「舞台裏」を裏としてファンの見せずにおくことの大切さを知らないはずもない。そこで、このように露出を徹底的に減らす戦略に出たのではないか。神宿の運営戦略は、アイドル業界を席巻した「裏の喪失」戦略に対する揺り戻し――「裏」の必要性を自覚するアイドル好きプロデューサーによる、アンチテーゼなのだ。

【ライブレポ】OnePixcelワンマンライブ『NATSUMATSURI』@渋谷WWW

 日曜の渋谷は、特別に混んでいた。神宮外苑で花火大会があるからだろう。着物姿の女子たちがグループを為して歩き、ときどき集まって自撮りなどしている。あまりの人口密度に軽い眩暈に襲われながら、渋谷の坂を上った。

 急な階段を下りて、会場である渋谷WWWに入ると、驚くことに、そこは人でぎっしり。渋谷のセンター街など、メじゃないほどの人口密度だ。WWWは500人キャパの会場だが、女性限定エリアと関係者席以外は、さながら高校の理科で習った最密充填構造の如くである。客層は男性が中心で、年齢層は高め。人ごみをかき分けながら、なんとか最後方にスペースを確保する。これで前の人の肩越しに、ちらちらと視界にアイドルを拝むことができる、というわけだ(ただし、がんばって背伸びをすれば、の話だ)。

 一人目のオープニングアクトは、東宝芸能所属のシンガーソングライター、森木レナ。未だ高校2年生の17歳だが、しっかりとアコギで8ビートを刻みながら、さわやかな歌声で会場を沸かせた。ギターの抑揚のつけ方など、堂に入ったものだ。対照的に、両手を合わせながらの、どこか芸能ズレしきっていないMCも可愛らしい。

 二組目のオープニングアクトは、OnePixcelの妹分、PiXMiX。6人組のガールズグループだ。なんとなく、顔だちを見ていると、OnePixcelと似ているような気がして、東宝芸能の中の人の好みが見えてくるのもおもしろい。「小さく前へならえ」の掛け声で整列すると、元気なダンスと歌唱で会場を盛り上げた。

 続いて3ピースのバックバンドを従えて、いよいよOnePixcelが登場。まずは、ビーティーな「Analoganize」。サビでの傳彩夏のダンスに目をひかれた。Hideの「Rocket Dive」のようなカバー曲を織り交ぜつつも、「Time」や「sora」といったオリジナル楽曲群を出し惜しみなく披露していく。田辺奈菜美によるソロ歌唱でのaiko「花火」や、傳、鹿沼亜美にPiXMiXのKOHIMEを加えた3人によるダンスの披露も。

 アンコールは、ももクロの「ココ☆ナツ」の披露に始まり、最後の「One 2 Three」でファンたちと一緒にジャンプ。観客のテンションも最高潮に高まったまま、ライブはフィナーレを迎えた。

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 途中のMCで、興味深い一幕があった。メンバーたちが8月の4~6日にかけて出演した世界最大のアイドルフェス、TIFを振り返り、TIFには馴染めなかった、という趣旨の話をしたのである。「「sora」を披露したときも、お客さんたちは「えっ?」というテンションだった」「TIF(で盛り上がる曲)って、「オイ!オイ!」みたいな(曲調の)曲だからね」と、メンバーたち。「でも、TIFで私たちのことを見て、ワンマンに来たという方もいると思う」と、鹿沼が上手に話をまとめた。

 私は、この話を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。何を隠そう、私は、TIFのOnePixcelの客席にいた。たしかに、客席には30人くらいしかおらず、閑散としており、かなり間近から余裕をもってOnePixcelを観ることができた(それはすばらしい体験だった)。だから、今回のWWWの混雑っぷりに、逆に私は驚いたのだ。さて、メンバーたちの話から導かれる結論はこうだ。OnePixcelはWWWを埋め尽くすほどの多数のファンを抱えている。しかし、フェスに足を運ぶような、比較的若いアイドルファンからは、あまり人気がない(あるいは、あまり知られていない)。

 なぜ、OnePixcelはTIFに来るような若いアイドルファンからの人気がないのだろうか。いろいろな理由が考えられる。東宝芸能は長い歴史を持つ老舗芸能事務所だが、どちらかというと俳優・女優のマネジメントが中心である。たとえば、男性バンドとの共演のような、アイドル運営ではタブーとされてきた手法(たとえば、Buono! のバックバンドは常に女性だけだった)をとるなど、OnePixcelの運営戦略は、いわゆる「アイドル運営」とは、やや異なる*1。他のグループに比べると、インターネットでの発信も少ないように思われるし、会場の混雑具合も、気になるところではある。

 そして、メンバーたちが指摘した、曲調の違いも、確かに存在する。OnePixcelの楽曲は、実績のある中堅・ベテランの作曲家が手掛けているものが多く、イマドキのアイドルソングの系譜というよりは、アメリカン・ポップ・ディーヴァや韓流アイドルソングの系統に近い仕上がりとなっている。

 しかし、こうした面とは裏腹に、私が今回のライブで実感したのは、「老舗の底力」だった。それは、多くのオーディションを主催している東宝芸能ならではの、人材発掘力である。メンバーたちを見てほしい。(オープニングアクトも含めて、)ここまで粒ぞろいの逸材を揃えることが、東宝芸能以外のどこにできるだろうか。

 天文学者カール・セーガンは、ボイジャー1号から送られてきた画像を見ていたときの経験をこう語っている。「地球のある方向にカメラを向けると、映っていたものは、たった1画素の、青白い点でした。その青白い点が私たちの全てであり、そこには国と国との区別もなければ、陸と海との区別もなかったのです」。今のOnePixcelは、TIFに馴染めずに下唇を噛む、1画素の点かもしれない。しかし、この1画素の点は、この地球のようにかけがえのない、「私たちの全て」になる可能性を秘めた点なのだ。私はそう信じている。メンバーたちの前途が洋々たるものであることを願いながら、そして観客の間をピンボールのようにつきとばされながら、私はWWWの階段を上がり、再び渋谷の喧噪の中へと足を踏み出していった。

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 OnePixcelは10月18日にセカンドアルバム『monochrome』の発売を、そして10月22日には、渋谷マウントレーニアでの2周年ライブの開催を予定している。 

*1:ただし、東宝芸能は、OnePixcelについて、「アイドルやアーティストの様なコンセプトは決めずに」と発表しており、公式ツイッターの表記も「ユニット」とだけ記している(PiXMiXも、アイドルではなく「ガールズグループ」であるとされる)。